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えっ!? これも仏教語
【祇園(ぎおん)】
祇園といえば祇園祭や舞妓さんを連想しますが、祇園という名は仏教からきています。お釈迦さまの時代のインドに、孤独な人を哀れみ施しをしたので給孤独(きっこどく)長者と呼ばれる富豪がいました。お釈迦さまに深く帰依し、寺院を寄付しようと見つけた土地が、祇陀(ぎだ)太子の土地でした。ふたりは協力して寺院を建設し、完成した寺院にはふたりの名をとって「祇樹給孤独園精舎」(略して祇園精舎)と名づけました。京都の祇園社は平安時代に祇園精舎の故事にちなんで名づけられたものです。
【我慢】
我慢は辛抱をすること、堪え忍ぶことで、我慢強いことは美徳のように言われます。けれども仏教では捨て去るべき煩悩のひとつで、自己に執着し、おごりたかぶって他者を低く見ることを意味します。
【諦め】
断念することを「あきらめる」といいますが、仏教では諦とは「まこと」「真理」という意味で、動詞の「あきらめる」は「明らかに真実を見る」という意味です。真実を見ることが難しいので「あきらめる」になったのでしょうか。
【開発】
自然開発、システム開発など、環境を変えて人間の生活を豊かにしたり新技術を生みだしたりするときに使われますが、仏教では「かいほつ」と読んで、他人を悟らせること、自らの仏性を開くことを言います。それが「新田開発」のように未開地を新しく開墾する際に使われ、現在のように一般的なことにも使われるようになったようです。
【彼岸】
秋分・春分の日を中日とし、その前後1週間に墓参りや寺院に参詣する「お彼岸」。彼岸とは、サンスクリットの「パーラミター」の漢訳「到彼岸」を略したもので、私たちの住む迷い多い此岸(しがん)から、煩悩の川を渡って到達する仏の世界を言います。春分と秋分は太陽が真東から昇り真西に沈むので、西方に沈む太陽を礼拝し、遙か彼方の極楽浄土に思いをはせたのが彼岸の始まりとされています。
【油断】
たかをくくって気を許し、注意を怠ることを言いますが、仏教では『涅槃経』にこんな話があります。昔ある王が、一人の臣下に油のいっぱい入った壺を持って歩かせ、「もし一滴でもこぼしたなら、汝の命を断つ」と言いわたしました。その臣下は、しっかり鉢を持って、なんとか無事に言われた所まで歩ききりました。ここから「油断」という言葉ができたそうです。
【投機】
短期的な価格変動を予測し、利ざやを得ようとする行為を言いますが、もともとは禅宗用語です。機とは心の働き、本来持っている素質・能力を言い、弟子の機と師の機が相投じて自然に一致することを投機と言いました。
【知識】
知識は中国古典では友人という意味があり、そこから仏教では信仰仲間のことを言ようになりました。今の意味とはずいぶん違いますね。
【修羅場】
戦乱・闘争の場面を言いますが、お互い感情をむき出しにしてののしり合ったり、最近では締め切り間近の切羽詰まったときを言うこともあります。古代インドの戦闘を好む阿修羅神からきていますが、仏教では人が生まれ変わって巡る六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)の一つに入っています。
【四苦八苦】
ひどく苦労したり、悩み苦しむことを言いますが、もとは仏教で人間のあらゆる苦しみを表わした言葉です。四苦は生老病死(しょうろうびょうし)―生まれる、老いる、病む、死ぬという人間ならば誰でも避けて通れない苦。これに愛別離苦(あいべつりく・愛する人と別れなければならない)、怨憎会苦 (おんぞうえく・嫌いな人と会わなければならない)、求不得苦 (ぐふとくく・欲しいものが得られない)、五蘊情苦 (ごうんじょうく・心身の苦しみ)を足して八苦になります。
【ちゃら】
「ちゃらにする」は、差し引きゼロにすることを言いますが、梵語で詐欺、欺瞞を意味する「チャラ」が語源と言われています。「ちゃらんぽらん」「おべんちゃら」も同じルーツで、あまりいい意味には使われていません。
【工夫】
いろいろ考えてよい方法を得ようとすることを言いますが、禅宗で師から公案という問題を与えられた修行者が、あれやこれやと思い巡らすことを工夫と言ったことからきています。
【だらしない】
いろいろな説がありますが、仏教ではこのような説があります。「だらし」は「しだら」の倒語(女→ナオンなど)で、「しだら」は梵語で紐や糸を意味するスートラ(修多羅)からきています。紙がない頃、仏の教えは貝葉(ばいよう)という葉に書き、それに穴を開けて紐でとじていました。これを漢語では経糸を意味する経と訳しました。この「しだら」がないと、お経がバラバラになることから、規律の失われた状態になることを意味するようになったそうです。
【講堂】
講堂というと、学校の講堂を思い浮かべますが、本来はお寺の七堂伽藍(しちどうがらん・金堂、講堂、塔、鐘楼、経蔵、僧坊、食堂)のひとつで、仏法の講義をするお堂のことです。講義をする場所がお寺から学校に変わったときに採用した名前なのですね。
【堂々めぐり】
同じことがいつまでも繰り返され、進展しないことを言います。また国会議員が演壇の投票箱に順次投票するときにも使います。本来は祈願や儀式で仏像や仏堂のまわりをまわることでした。行としてやっているので「進展しない」ということはないと思いますが、見た目はただぐるぐるまわっているだけに見えたのでしょう。
【迷惑】
「迷惑」は、主として他人の行為をわずらわしく思ったり、いやな目にあうことを言います。仏教では仏の教えがわかりにくくて思い迷ったり、理解に苦しむ状態を「迷惑する」と言いました。自分自身が迷い惑うことがいつの間にか、一般では他人からの行為を言うようになりました。
【一味(いちみ)】
「強盗の一味」などとよくない意味に使われがちですが、仏教では海の水がどこでも同じ味であるように、仏の教えは時・所・人に応じて多種多様であっても、もとはみな同じで平等無差別であることを意味します。
【相続】
現代では財産や地位を受け継ぐことを言います。仏教では、すべての現象は諸行無常で一瞬一瞬生じては滅しているが、その流れ自体は継続していることを相続と言います。そこから引き続き起こること、受け継ぐことの意味となりました。
【脱落】
文字どおり抜け落ちることで、現在ではあまりいい意味には使われていませんが、禅宗では煩悩を捨てて悟りの境地に入ることを意味します。
【方便】
「うそも方便」とよく言います。うそをつくことも時と場合によっては必要なこと、という意味に解釈されています。仏教では、仏が一人一人に合った方法で教化することを方便と言いました。
【醍醐味】
醍醐味は「釣りの醍醐味」などと、ものごとの真骨頂を表わすときに使います。醍醐は牛乳を精製したときにできる五つの乳製品のうち最後にできる最高の味のもの。仏教ではこれを仏の最高の教えの意味に使いました。
【知事】
知事は各都道府県の最高責任者の職名ですが、仏教では、寺院運営と教育をつかさどる重要な役目の僧を言います。禅宗寺院には六知事が設けられ、会計、教育、営繕、台所などを担当しています。
【退屈】
暇をもてあますことを意味する言葉として日常よく使われています。仏教では仏道修行の苦しさに「屈」して、仏道を求める心が「退」くことを意味しました。
【道具】
日常使う用具を道具と呼んでいますが、もとは仏「道」修行のための用「具」という意味で、修行僧の持ち物を言いました。修行僧の持ち物は、六物(ろくもつ)といって3種類の衣服、鉢(食器)、座具(敷物)、こし袋(水を飲むとき、水の中の虫を殺さないためこす)のみでした。
【法螺(ほら)を吹く】
おおげさにものを言う、嘘をつくことを言いますが、昔インドで、法螺貝の響き渡る音をお釈迦さまの説法にたとえ、説法が人の耳に届き、心に沁みることを表わしていました。今のような意味になったのは、お釈迦さまの教えをわかったような顔をして間違って説いた僧がいたからでしょう。
【お題目を唱える】
日蓮宗では「南無妙法蓮華経」と唱えることを、お題目を唱えると言います。本来題目は本や作品の題名で、仏教では経典の題のことです。「お題目をならべる」「お題目だけは立派」など、表向きはよいけれど中味が伴わないことに使われることが多いようです。
【皮肉】
禅宗の「皮肉骨髄」が語源です。皮肉(表面)、骨髄(内面)でその人のすべてを表わしています。そこから皮肉が表面だけのこと、理解が浅いことの意味になり、さらにあてこすり、遠まわしの悪口といった意味になったようです。
【娯楽】
現在は人の心を和ませるものや気晴らしのことを言います。楽は仏教では悟りの楽しさのことで、お釈迦さまに出会って精神的な安らぎを覚えることを娯楽と言いました。
【しゃかりき】
一生懸命に何かに取り組む、大奮闘することを言いますが、これは釈迦力=お釈迦さまの力が語源です。お釈迦さまは人々を救うという目的のために、脇目も振らずその力を使ったことからきています。
【つっけんどん】
ぶっきらぼうで不親切な態度をとったり、とげとげしい言い方をすることを言います。漢字で書くと「突慳貪」。慳はけち、貪はむさぼりの心で、仏教の代表的な煩悩です。(突は強調の接頭語)このような煩悩のある人は他人への態度にも表れるのです。
【ありがとう】
ふだん気軽に感謝を表わすときに使いますが、「有り難う」と書くように、めったにないことだと感謝する言葉です。出典は法句経(ほっくぎょう・お釈迦さまの語録)の「ひとの生をうくるはかたく、やがて死すべきものの、いま生命あるはありがたし」と言われています。六道輪廻する中で人に生まれる確率はほんの少し。それはとても有り難いことなのです。
【冥利(みょうり)】
「○○冥利に尽きる」とその立場の人にとってこの上ない幸せという意味に使いますが、冥利は仏・菩薩によって知らず知らずのうちに与えられる利益(りやく)のこと。それがある状態や地位にあることから生まれてくる幸福を意味するようになったのでしょう。
【あばた】
「あばたもえくぼ」ということわざがありますが、あばたを漢字で書くと「痘痕」。天然痘のあとです。仏教で説かれる地獄のひとつに、阿浮陀(あぶだ)地獄があります。嘘をついたり、悪口を言ったり、聖者を侮辱する言葉を吐いた人が堕ちる地獄で、ここに堕ちると寒さのために身体中に腫れ物ができて大変苦しむと言われています。この阿浮陀があばたとなり、天然痘のあとに残る痕跡の意味になりました。
【阿弥陀くじ】
今は縦に人数分の平行線を引き、その線の間に横線を入れて引くやり方ですが、昔は人数分の放射線を引いていました。それが阿弥陀如来の後ろに射す後光に似ていることから阿弥陀くじと言われるようになったようです。阿弥陀如来は、別名を「無量光(はかり知れない光に満ちあふれた)如来」と言います。
【うろうろ】
はっきりした目的もなく、あちこち行ったり来たりすることを「うろうろする」と言いますが、この「うろ」は仏教語の「有漏(うろ)」からきています。「漏れるものがある」ことで、心から煩悩が流れ出て思い迷っている状態を言います。反対は、漏れる煩悩が無いので「無漏(むろ)」。悟りを開いた仏の境地を言います。
【上品・下品】
品性が立派なことを上品、下劣なことを下品と言いますが、仏教では、じょうぼん・げぼんと読みます。浄土教では極楽に往生する人を能力や性質などから9種類に分けて九品(くぼん)(上品上生・上品中生・上品下生・中品上生・中品中生・中品下生・下品上生・下品中生・下品下生)としています。生前に善業をなすと上品・中品、悪をなすと下品に属することになります。
【愛嬌】
「男は度胸、女は愛嬌」「愛嬌をふりまく」など、にこやかでかわいらしいことに使われます。もともとは仏教語で、「愛敬(あいぎょう)」と書き、愛(いつく)しみ敬(うやま)うことを言いました。仏様や菩薩の慈悲にあふれた柔和な表情を「愛敬相」と言います。
【看病】
病人を看護することですが、これは仏教の「看病禅師」からきているようです。奈良時代、天皇や皇后の病気の際、看病禅師が説法や呪法をして病気を癒しました。病気がちの聖武上皇は126人もの看病禅師を抱えていたそうです。死後だけでなく看病も僧侶の仕事だったのですね。
【呂律(ろれつ)】
舌が回らず、言葉がはっきりしないことを「呂律が回らない」と言います。お経に節をつけて唱える声明(しょうみょう)には呂旋法、律旋法という音階があり、この音階が合わないことを「呂律が回らない」と言ったことからきています。
【奈落(ならく)】
「奈落の底に突き落とされる」などと言われ、どん底を意味しています。劇場では舞台の床下や花道の下にある地下室を奈落と呼んでいます。サンスクリットの「ナラカ(地獄)」が語源と言われています。奈落の底とは地獄の底のことで、ここに落ちたら永久に浮かばれない恐ろしい所です。
【くしゃみ】
くしゃみはサンスクリットの「クサンメ(長寿)」からきていると言われています。ある時、お釈迦さまがくしゃみをすると弟子たちが一斉に「クサンメ」と唱えて、師の健康を願ったという話があります。英語で「Bless you」と言うようなものです。漢語では「休息万命(くそくまんみょう)」などとうまく訳されています。早口で言うとクサンメに聞こえますね。
【言語道断(ごんごどうだん)】
言葉では言い表せないほどひどいことを表わすのに使われますが、仏教では同じ「言い表せない」でも「さとりの境地や奥深い真理は言葉で表すことができない」という意味です。
【自業自得(じごうじとく)】
自分の行いの報いを自分が受けること。一般には悪い報いを受ける場合に用います。業は仏教語で人間が為す行為のことです。善い行いをすればよい結果を、悪い行いをすれば悪い結果を自ら招き、輪廻していくというのが仏教の教えです。
【根性】
「根性がある」「根性が曲がってる」などと使いますが、仏教では根性とは仏の教えを受ける者として備えている能力や資質を言います。
【どっこいしょ】
力を入れるときや、疲れた体を休めるときなどについ言ってしまいますね。「どっこいしょ」は仏教語の「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」がつまったものと伝えられています。六根とは眼、耳、鼻、舌、身、意(心)の感覚器官で、迷いを起こさせる原因となるものです。霊山に登るときや寒参りのときに六根の不浄を清めるために「六根清浄」と唱えたことからきているようです。
【無学】
学問・知識がないことを意味しますが、仏教では煩悩を絶ち尽くし、もはや学ぶべきもののない境地を言います。「あの人は無学だ」というのは褒め言葉なのです。
【頑張る】
人を励ますときによく使いますが、これは仏教の「我を張る」からきています。仏教では自分の考えに執着することはよくないとされていますから、けっしていい意味ではありません。現在でも自分の意見を押し通すことを「頑張る」と言ったりします。
【道楽】
仏教では悟りの楽しみ、仏の道を求める楽しみを言います。現代では本業以外のことや、よからぬ遊びに熱中することを言い、あまりよいイメージでは使われていません。
【挨拶】
「挨」は押す、「拶」は迫るの意味で、禅宗では僧同士が意見交換をしたり、師匠が修行中の僧に声をかけ、その返答で悟りの度合いを測ることを挨拶と言いました。声をかけて相手の様子を見るというところが俗世間で広まったわけです。
【内証(ないしょ)】
内緒とも書きますが仏教では「ないしょう」と読みます。自内証という意味で、自己の心のうちで真理を悟ることです。悟りとはそれぞれの心の中にしまっておくもの、他人には見えないものというところから秘密、内密の意味を持つようになりました。
【邪魔】
お釈迦さまが菩提樹の下で悟りを開く前に悪魔がやってきて悟りを妨げたことからから、仏道修行を妨げるものを邪魔と言うようになりました。それが一般化して「邪魔をする」「お邪魔します」などと使われるようになりました。
【無念】
「残念無念」などと悔しい気持ちを表すときに使いますが、仏教では心に何も思わないこと。迷ったり思いめぐらすことなく妄想や煩悩から解放された状態を言います。
【無事】
身の上などに悪いことが起こらないこと、取り立てて変わったことがないことを言いますが、仏教ではすべての煩悩を捨て、執着心から解放された悟りの境地を意味します。
【安心】
不安や心配ごとがなく、安らかな心でいられることを言いますが、仏教では「あんじん」と読み、信仰によって安らぎを得て、どんな物事にも心が動ずることのない境地を表します。
【億劫(おっくう)】
気乗りがせず面倒なことを言いますが、これは仏教で無限と言えるほどの長い時間を表す「劫(こう)」の億倍ということ。「未来永劫(えいごう)」や落語『寿限無』の「五劫のすり切れ」などで使われていますね。一劫とは、一説「四里(約16㎞)四方の岩を天人が百年に一度下りてきて羽衣で岩をなで、これによって岩が消滅しても、なお尽きないほどの長期間」。よほど気が進まないことを言ったのでしょう。
【刹那(せつな)】
きわめて短い時間、瞬間のことで、刹那的、刹那主義は現在の瞬間を生きることに全力を尽くすということですが、一般的には一時的な快楽を追求する意味合いで使われることが多いようです。本来、仏教でいう時間の最小単位で、一つの意識の起こる時間、75分の1秒という説や、指をパチンと弾く時間(一弾指)の65分の1という説もあります。
【出世】
世間に出て高い地位につき、名が知られる身分になることを意味しますが、これは仏教で仏が人々を救うためにこの世界に出現することを言ったことからきていて、やがて修行僧から一人前の僧になり、僧の階級が上がることも意味するようになりました。もうひとつ、俗世間を超えて仏道修行のために出家するという反対の意味もあります。
【足を洗う】
悪事やよくない仕事をやめて正業につく、堅気になるというような使い方をしますが、本来は裸足で托鉢(たくはつ)をして戻ってきたお坊さんが足を洗ってから寺院内に入ったことからきています。迷いの世界である俗世間の汚れを落としてから清浄なお寺の中に入ったのです。
【有頂天(うちょうてん)】
得意の絶頂で幸福感に浸っているありさまを言いますが、この言葉は仏教の宇宙観が基になっています。仏教では生きものが住む世界を下から欲界(欲望がある世界)・色界(物質の世界)・無色界(欲望も物質もない精神的世界)の三界(さんがい)に分け、その最高の場所を有頂天としました。ここもまだ迷いの世界で、いつ転落するかわかりません。「あまり有頂天になるな」と警句的にも用いられるのはこのためでしょう。
【玄関】
もとは禅の言葉で「玄妙な道に入る関門」の意味です。玄妙とは奥深い仏教の教えのこと。それが禅寺の入口を指すようになり、江戸時代以降、庶民の家の入口にも使われるようになりました。
【馬鹿】
馬と鹿を間違えるほど愚かということでこの字を当てますが、もとは梵語(インドの古い言葉サンスクリット)の無知・迷いを意味する「モハ」という言葉。「莫迦」「莫訶」などと音写したことから、「ばか」と読むようになり無知・迷いのある人→愚かな人を指すようになったようです。
【がたぴし】
戸や障子の建て付けが悪いことを言いますが、漢字では「我他彼此」で、我他は自分と他人、彼此はあれとこれ。仏教では我も他も彼も此も区別ない状態を理想としますが、反対に我と他、彼と此を対立的に見て争いごとを起こしたりする状態を表しています。
【旦那】
梵語で布施を意味する「ダーナ」を音写したもの。やがて布施をする人から商家で一家を取り仕切る主人の尊称となり、今では、使用人が雇い主を、妻が夫を呼ぶことが一般的になっています。お寺では、財政的にお寺を支えてくれる人を檀那と呼び、檀家という言葉もそこから生まれました。
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