葬送旅日記
せつな
あるときは奈良のお水取り現場に、あるときは中央アジアに、葬儀、 宗教などに興味を抱き、主婦となってからも宗教を大学で学ぶ、せつなさん のレポートです。
奇祭? やすらい祭(京都府)
春の草花をさした赤い傘
京都といえば祇園祭、葵祭、時代祭の三大祭りが有名ですが、お寺や神社が多い分、折々どこかで小さなお祭りをやっています。今回は京都三大奇祭のひとつ(他のふたつは鞍馬寺の鞍馬の火祭、広隆寺の太秦の牛祭)というネーミングに惹かれて今宮神社のやすらい祭を見に行ってきました。
平安時代、疫病や災害が蔓延したのは御霊(怨霊)のせいと考えられ、これらを鎮めるために御霊会(ごりょうえ)が各地で営まれました。祇園祭も御霊会のひとつです。疫神(やくじん)を祀っていた今宮神社でも御霊会が営まれ、それが祭りの起源となりました。
やすらい祭は「鎮花祭」「やすらい花」とも言われ、春の花が飛び散るときに、悪霊や疫神も同時に飛び散って人々を悩ませるので、この疫神を鎮めるために行われた鎮花祭(花しずめのまつり)と言われています。(今の花粉症も悪霊のせい?)
花で飾った大傘を先頭に歌舞伎者(着飾ったり仮装した人)が練り歩き、歌い踊って悪霊を鎮めます。
歌舞伎者が傘のまわりを廻ります
頭がもしゃもしゃ、赤い着物の歌舞伎者たち。さぞかし威勢のいい踊り見せてくれるのではと期待していましたが、演じるのは地元の中高生ぐらいの男子。下を向いて恥ずかしそうに小ぶりな動作で踊っていました。無理やり動員されたのでしょうか? これでは悪霊は鎮められそうにありません。命や生活がかかっている平安時代の祭はさぞかし迫力があったでしょうね~とおとなしい歌舞伎者の姿から当時の踊りに思いを馳せることにしました。
花が飾られた大傘の下に入ると一年間健やかに過ごせる、特に生まれて初めての赤ちゃんは一生健やかに過ごせると言われていて、展示されている傘の下に次々と人が入っていました。
静かな境内に比べて参道のあぶり餅屋さんは大流行り。串に刺した小さな餅を食べると厄除けになるとか。こちらのほうが効き目がありそうです。
春を呼ぶ醍醐寺・五大力さん(京都府)
奉納されたお餅。本堂前のおかげ餅を触って無病息災を祈ります
京都・伏見の醍醐寺は修験道当山派の聖宝理源が開いたとされる真言宗醍醐派の総本山です。毎年2月23日に行われる五大力尊仁王会(ごだいりきそんにんのうえ)は五大力菩薩によって国の平和や国民の幸福を願う行事。京都の人には「五大力さん」として親しまれていて、この日に限って授与される災難・盗難除けのお札「御影(みえい)」は家の出入口によく貼られています。
五大力さんで有名なのは力自慢の男女が巨大な鏡餅を持ち上げ、その時間を競う「餅上げ奉納」。男性は150キロ、女性は90キロの鏡餅を抱え、その力を奉納し、無病息災、身体堅固を祈ります。ただ力を競うのではなくその力を奉納するというところがポイントです。
境内には歴代勝者の番付が掲げられていました。今年は女性は京都府警の警部補で8分7秒だったそうです。すごい! 90キロのお餅ですよ。
あいにくの雨で、奉納されたお餅にはビニールがかけられていました。
紫燈護摩供養。お札を火にかざしてもらいます
面白かったのは真言密教と修験道の護摩供養を同時に見られたこと。お堂では僧侶が真言密教の修法で護摩を焚き、外では修験道の山伏たちが紫燈(さいとう)護摩供養をしています。
護摩とはサンスクリットのhoma=焚くの意味で、護摩木を火中に投じて不動明王などの智慧の力で煩悩を焼き尽くすことですが、そこから祈願や先祖供養の文言を書いた護摩木を投じて願いごとを叶えてもらう行事となっています。
お堂では金色の密教具が並ぶ密教壇で導師が護摩木を火にくべています。最後は参列者自らが護摩木を投じることができる参加者サービスもあります。
外の紫燈護摩では山伏が人々が差し出すお札を焚火にかざしてくれます。こうするとご利益がパワーアップするのです。
紫燈護摩というのは、山中で護摩を焚く際、密教具がないため、山にある柴を焼いたからと言われています。導師の前には密教具に見立てた石がいくつか並んでいます。密教の護摩供養と似たような所作ですが、修験者らしく鉢巻姿で突然刀を振りかざしたり、たいそう勇ましいアレンジがされていました。
紫燈護摩供養の導師
本来の仏教は祈祷をしないと言いますが、日本に入ってきた仏教は主に密教だったので祈祷中心。祈祷があったからこそ人々に受け入れられ広まったのだと思います。禅宗のように己事究明(自らを見つめる)もいいですが、パワーを分けてもらえる密教・修験道は庶民には魅力です。五大力さんに行ったことで冬眠から覚めたような気分になって、お札をもらっていないのに元気が出てきました。
今回は葬送とは直接関係ないなと思っていたら、京都最後の日に出遭ってしまいました。滞在先の隣りのビルから飛び降りがあり、その一部始終を見てしまいました。中年男性で即死でした。
なぜ? なぜ? 見ず知らずの人でも「なぜ死んだの?」という思いが頭の中をぐるぐる回ります。信じられないような光景でしたが目が離せません。淡々と後始末をする警察の人に、東北の震災で遺体の収容をしていた警察や自衛隊、葬儀業者の方の姿が重なりました。
何日経ってもその光景がよみがえってきます。五大力さんでもらったパワーもしぼみました。東北で望まない死がたくさんあったというのになぜ自ら死を選んだのか? 警察の人はあのような遺体収容に慣れるということはあるんだろうか? 今でも考えてしまいます。
まわりのことなど考えられないほどつらかったのでしょうが、やはり死んだらだめです。みんながつらくなるから。
伊勢の神様(三重県)
御塩汲入所(左)と御塩焼所
伊勢で神職の方の案内による聖地見学会に参加しました。
御塩(みしお)浜、御塩殿神社、二見興玉(ふたみおきたま)神社、朝熊岳(あさまだけ)金剛證寺など、観光では行けないようなところにも行ってきました。
御塩浜は伊勢神宮に供える塩を昔ながらの方法で作っているところです。
真夏、海水を浜に取り込み、水分を蒸発させた塩水を御塩汲入所に運び、御塩焼所で煮詰めて塩にします。できた塩は俵に詰めて御塩御倉に納め、年に2回、三角の型に入れて焼き固め、おむすびのような堅塩を作ります。これは伊勢神宮に一晩こもって身を清めた白装束の神職が担当し、できあがった堅塩はけがれを祓った塩の道を役夫が担いで神宮に運ぶ…さすがに今は車で運ぶそうです。
途中途絶えたことがあっても2千年近くこの方法で続いているのは驚きです。森の中にたたずむ素朴な作りの社。タイムスリップしたような気分になりました。
二見浦の夫婦岩
二見興玉神社は年末年始によくテレビに登場する「夫婦岩」で知られています。縄でつながれ仲良さそうに見えるため夫婦円満を祈願する人もいますが、これは本来、ここから日の出と神社を拝む遙拝所、つまり鳥居です。思っていたより「婦」が小さい!
「大きいほうが『婦』じゃないか?」「仲が良いのではなく、お互い束縛しあっているんだ」などと言う人もいて、見る人によってとらえ方がいろいろなのが面白いです。
参拝記念に「無事かえる」「失せ物かえる」の蛙のお守りと、罪けがれを祓うお守り・無垢塩草をいただきました。これで今年のガードはばっちりです。
朝熊岳金剛證寺参道の卒塔婆群
最後は朝熊岳金剛證寺。真言宗の祖・空海が道場を開いたとされていますが現在は臨済宗のお寺になっています。奥の院への参道にはびっしりと角柱の卒塔婆(そとうば)が塀のように立っています。実はこれが見たかったのです。でもこの日は風雨吹き荒れる悪天候で、卒塔婆群が立つ暗い参道はおどろおどろしく、あまりよく見ないで通り過ぎてしまいました。
卒塔婆は大小さまざま。1万柱ぐらいあるそうで、高いのは8メートルぐらい。奉納料は何十万です。この近辺には宗派を問わず葬儀の後に朝熊岳に登り、卒塔婆を立て供養する「岳参り」の風習があるのでどんどん増えるわけです。ところどころに帽子や子ども用のマグカップなど遺品が下がっていて、遺族の思いが伝わってきます。
嵐の中の見学会が終わって聖地から出たとたん風雨が急にやみ晴れてきました。「神様が怒っていたんだ」「いや、歓迎していたんだよ」と皆いろいろ言っています。私は森の中の風に語りかけられたように感じました。
吉野山でプチ修験道(奈良県)
出立ちの読経をします
吉野山で大峯奥駆(おおみねおくがけ)のプチ版を体験する機会がありました。
大峯奥駈道は、奈良吉野山と熊野三山を結ぶ、熊野古道の中で最も険しいルートで、ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録されています。
修験道とは、山へこもって厳しい修行を行うことにより、悟りを得ることを目的とする日本古来の山岳信仰に仏教が習合し、道教、陰陽道などの要素も入って成立した日本独特の混交宗教です。この行者を修験者、山伏と言います。山伏は歌舞伎の勧進帳の弁慶の姿を思い浮かべてください。
山でただ修行をするだけではなく、超自然的な験力(げんりき)を身につけ、里に下りて薬草の知識で医術を施したり、呪法で人々を救済したりしていました。
後醍醐天皇陵
今回は山伏の先導で山に入ります。今も山伏がいることは知っていましたが、間近で見るのは初めて。集合場所のお寺には手に法螺貝を抱えた山伏が何人も弁慶みたいに立っていてちょっと恐い雰囲気。けれども山伏さんとお友だちになるめったにないチャンスなのでこわごわ話しかけてみました。そうしたらふつうのおじさんたちでした。聞けばふだんはサラリーマンや商店主。修験のお寺の住職でないかぎり、在家で仕事をもちながら修行に励む人がほとんどだそうです。
若い女性の山伏さんは神職だそうです。先ほどまで袈裟を着ていたお坊さんが山伏姿で現れました。なるほど神仏習合を地で行ってます。
山伏さんたちがプオーと一斉に法螺貝を吹いて出発。法螺貝は身を清めることと居場所を知らせる意味もあるそうです。下り中心の楽なコースでしたが、山伏さんたちの速いこと速いこと。写真を撮る暇もありません。ついて行くのが精いっぱいで、途中から雨も降り出し、よれよれになってちょっとは修行の気分になりました。
途中あちこちの参拝スポットで般若心経を唱えます。如意輪寺には雨にけぶる後醍醐天皇陵がありました。ふつう天皇陵は南面していますが、この陵は北面しています。これは北にある京都に帰りたいという後醍醐天皇の願いを表したものだそうです。ただ懐かしくて帰りたかったのか、権力に未練があってにらみをきかせているのか…想像を巡らせていたら置いて行かれそうになりました。
修験道のメッカ金峯山寺の蔵王堂
そうこうするうちにゴールの金峯山寺(きんぷせんじ)まで下りてきました。山伏と一緒だと参道のお店の人たちや参拝者が合掌してくれて、何だかいい気分。(ちっとも悟っていません)
蔵王堂前で般若心経を唱えて満行。プチ修行ですが、それなりの達成感があり、何とも清々しい気分になりました。
上るより下るほうが足を使うというのは本当でした。数日間ふくらはぎがゴチゴチになって、階段を下りるのも一苦労。こちらのほうが修行みたいでした。
実際の修行は断崖絶壁から逆さづりになるなど、リポビタンDばりのメニューがたくさんあります。体力をたくわえて自分を試すにはもってこいの修行ですが、悟りを開く暇がいつあるのだろうかと…。
以前見た羽黒山秋の峰入りの映像では、山に入って一度死んで生まれ変わる擬死再生の儀式が行われていました。人生をリセットできるのは魅力ですが、何日も顔も洗わず歯も磨かない、唐辛子をいぶした煙を顔に浴びる「南蛮いぶし」などの行があって、とても自分にはできないと諦めていました。
今回ちょっとだけでも修験道の体験ができて満足です。
野生の象を見た!(スリランカ)
石窟寺院の竜王に守られている釈迦像
かつてセイロンと言われていたスリランカ。紅茶の産地として有名ですが、インドで興った仏教が南下して最初に伝わった島です。紀元前3世紀、マウリヤ王朝のアショーカ王の息子マヒンダが伝えたとされています。お釈迦様の教えを守る、上座部仏教(小乗仏教)はここから東南アジアに伝わりました。
北インドから来たシンハラ人と後に南インドから来たタミル人がさまざまな軋轢を生んでいたうえに、16世紀頃からオランダ、ポルトガル、イギリスが介入して植民地化し、独立後は30年間も民族間の争いが続き、2年前にようやく終わった、という波乱に満ちた歴史をもつ国です。
「今も民族間の衝突があるから危ない」と言われても来てしまったスリランカはヤシが生い茂る美しい島。人々は明るく、バスで走っていると、子どもたちだけでなく大人も笑顔で手を振ってくれます。この平和な島に戦乱があったことなど想像もつきませんが、地方の農村には屋根が吹き飛んだ家や廃墟となった建物がそのまま残っていて、内戦のすさまじさをうかがわせます。ようやく最近になって避難していた農民が戻ってきているそうですが、今までの生活を取り戻すにはまだまだ時間がかかりそうです。
地雷で足をなくした象
仏教遺跡はお釈迦様がその下で悟りを開いたというインドのブッダガヤの菩提樹から分けられた樹齢2千年の菩提樹、お釈迦様の歯を祀る仏歯寺、石窟寺院などたくさんあります。
薄暗い石窟の天井には色鮮やかな壁画が描かれ、涅槃仏や坐像が祀られています。大乗仏教と違って釈迦像がほとんどですが、頭に蓮華がついていたり、竜王(蛇)に守られている像が珍しかったです。
仏歯寺近くのホテルに泊まっていたら、朝5時、突然大音響のお経で起こされました。信者が朝早くから訪れて花や食べ物を供えているのです。夕方も1時間お経が流れますが、イスラム教徒のようにこの間仕事を休んで礼拝したりはしないようです。
移動中、車窓から野生の象を見ました。2頭、プオーと鳴いて砂を吹き上げています。象は日本では「♪象~さん」と人気者ですが、ここでは毎年50人ぐらいの人が象に殺されるそうです。5トンもあるので襲われたらひとたまりもありません。昔このあたりの戦争では象の軍隊を組織して戦っていました。力はあるし、走るのも結構速いのです。
ピンナワラの「象の孤児院」では群れからはぐれたり母象と死別したりした象たちがのんびり水浴びをしていました。平和そのものの風景ですが、地雷を踏んで足をなくした象もいました。
お葬式のある家
長い間植民地だった影響でお墓はキリスト教のものが目立ちます。仏教の葬送はどうなっているのかと思っていたら、ちょうど葬儀の風景に出遭いました。道の上に細い白い布を下げた綱が張ってあり、所々に白い旗も立っています。これが葬儀のある家からお墓まで続くので、道行く人はどの家で死者が出たのかがわかります。日本では亡くなったことを近所に伏せて家族だけで葬儀をするのが流行っていますが、ここでは道行く人に知らせているのです。
亡くなってから3日ぐらいは遺体を家に置き、男性がトランプなどをしながら夜も寝ないで見守ります。魂が出やすいように窓は開けたまま。その間弔問客が訪れますが、ご馳走が出るので死者と関係のない通りすがりの人もやってきます。食事を振る舞うことは功徳を積むことになるので、誰でも歓迎です。食事はその家では作らず隣家が調理して届けます。近所づきあいを密にしていないと葬儀は出せないということですね。
被災地に咲く花(岩手県)
至るところに瓦礫が積まれています
東日本大震災の被災地、岩手県の大槌町と陸前高田市でボランティアをしてきました。瓦礫は大方片付いたように報道されていますが、所々にまとめて積み上げられているだけで、なくなっていません。最近は火災も発生しているようです。以前駐車場だったところには潰れた車が整然と並んでいて、異様な光景です。
ボランティアセンターの展示コーナー
川を再生させ、魚が住めるようにするための泥出し、海辺の農家の跡地の瓦礫撤去などをしました。川では救い上げられた泥から自然に還らないものを取り出します。中味が入った洗剤のプラスチック容器、植木鉢、本、食品パッケージなどが次々出てきました。写真も出てきました。写真は顔がわかるもののみボランティアセンターに持ち込み、あとは土に還します。
ボランティアセンターでは写真、賞状、トロフィーなどをきれいにしてから展示し、持ち主に返しています。仲間とVサインしている写真が多く、お祝い事でかしこまっている写真、卒業写真、結婚式…見ていて何とも切なくなります。
農家の跡地の草刈りをすると、車のバンパー、バイク、電柱など大物が出てきました。住人はここで生活するのは諦め、花を植えたいというので、石や土に還らないものを掘り出す作業をしました。あらゆる生活の道具の破片が出てきて、被害の大きさに驚くとともに、失われたものの多さに愕然としてしまいます。
食器のかけら、玩具、サンダル、服の切れ端、パラボラアンテナ、窓のサッシ、薬のタブレット、フライパン、鍋…鍋の中には煮魚が入っていました。中味がすっぽり抜けた犬か猫の毛皮が出てきたときには思わず合掌してしまいました。動物たちもたくさん死にました。まだまだ人骨も出るそうです。
震災後、自衛隊が遺体捜索に来る前は地元の人たちが遺体を収容していました。あまりの無惨さにショックを受けたため、以後外出したり土に触れることができなくなっている人もいるそうです。外部から来たボランティアでさえ掘っていてつらくなるのですから、この仕事は被災者にはさせてはいけないと思いました。
崩れた道路とひまわり
瓦礫の山には夏草が茂り、所々にひまわりやコスモスが咲いています。川べりで来年の春のために菜の花の種を撒いている人がいました。
放射性物質を吸収させるためにひまわりを育てたりする試みが各地でされていて、これは農水省によると効果は期待できないそうですが、被災者は効果よりも何としてでも花を植えて死者を弔い、自らの慰めにしたいのだと思います。花を植えて希望をつなぐほかに、今一体何ができるのでしょうか?
ここでは「がんばれ東北」「負けるな日本」など、誰が誰に言っているのかわからないあいまいな言葉が浅薄に聞こえます。励ますよりもこれ以上被災者の悲しみを増やさないようするには何をしたらよいか考え、実際に手を使って援助していくのが「たまたま被災しなかった私たち」がやっていくべきことだと思います。
洛中夏夜行(京都府)
高台寺の燈明会
夏の京都では夜もあちこちで行事が催されています。
東山の高台寺では「百鬼夜行展」をやっていました。高台寺は豊臣秀吉没後、その菩提を弔うために北政所・ねねが開創したお寺です。このお寺では毎年夏に円山応挙の「幽霊図」、江戸時代の土佐派の「百鬼夜行絵巻」、地獄極楽図などを展示し、イベントを行っています。
「百鬼夜行絵巻」には、百年経って精霊が宿る前に捨てられた道具が夜鬼や妖怪になって闇夜を歩く姿が描かれていました。物には九十九年目に精霊が宿るとされ、九十九神(つくもがみ・付喪神とも)と言われていますが、これになれなかった物たちが化けて出るのです。破れ傘やこわれた土鍋…このお化けたちは何ともかわいらしくて、いくら見ていても飽きません。昔の人はこれを子どもに見せて「物を大事にせなあかん」と教えていたのでしょうか。今の子どもには効果なさそうです。
書院の床の間には仏像の後ろに幽霊図が掛けられていました。こちらは全然かわいくもなく、美しくもありません。なぜこのようなものをお盆の時期に掛けるのかというと、祀られることのない先亡者の供養のため。餓鬼道に落ちた者たちのための施餓鬼供養と同じです。好物のお香をたくさん焚いてきちんと供養すれば化けて出たりしないのです。
高台寺ではたくさん提灯を掲げて先祖の霊を供養する燈明会もやっていました。提灯の中にはお馴染の妖怪も。
上御霊神社の六斎念仏
京都の夏祭りは祇園祭をはじめとして、ほとんどが疫神や死者の怨霊などを鎮めるために行う御霊会です。その発祥の地とされる上御霊神社では六斎念仏をやっていました。
六斎念仏は、もとは月のうち特定の6日が悪鬼がやってきて人命を奪う不吉な日とされていたため、この日に講を組織して集まり、念仏を唱えたことから始まったものです。これが亡くなった講員の供養念仏となり、お盆には村を回って念仏を唱えるようになりました。それが芸能化し、今でも各地で伝承されています。太鼓と鉦の音にのせて「猿廻し」「獅子と土蜘蛛」などの演目が薄暗い神社の舞台で楽しげに演じられていました。
金閣寺道から見た左大文字
なんといっても夏の京都で有名なのが五山送り火です。「大文字焼き」と言われることもありますが、大の字だけではないので五山送り火が正式名称です。お盆に迎えた精霊を送る行事で、同時に五カ所で火を焚きます。
今年は燃やす薪に放射性物質が含まれている可能性があるので燃やさない、燃やす、などでひと騒動ありましたが、無事開催。点火前には震災犠牲者を追悼して黙祷したそうです。
五山のうち4つが見えるという船岡山に登ってみました。でも人だかりや木が邪魔してよく見えません。電柱に蝉のようにしがみついて見渡すと遠くに小さくけぶった「大」がかろうじて見えます。山をうろうろしても他の字が見えるスポットが見つからなかったので、左大文字の近くまで行ってみました。めらめらと薪が燃え上っているのが見えます。
たくさんの亡くなった人たち、先月亡くなった知人のことを思いました。
子どもに送り火の説明をしていた親に、子どもが「それでみんなどこに行っちゃうの?」と聞いていました。本当にみんなどこに行ってしまうのでしょうか。
「きれい」「きれい」とはしゃいでいる観光客の横で、地元のおばあさんが静かに手を合わせていました。美しい風景でした。
熊野那智大社の火祭り(和歌山県)
すごい迫力!大松明
世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」のひとつ、熊野古道の終着点・熊野那智大社に行ってきました。年に1度の例大祭・那智の火祭りの日です。
日本書紀によると、「花の窟(いわや)」(現・三重県熊野市の花窟神社)に伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が葬られているとされ、熊野の地名は死者が隠(こも)るところ「隠り野」からきていると言われています。
「黄泉(よみ)の国」というイメージに神々が降りたとされる伝説や、古事記で神武天皇の東方征伐の際の上陸地とされたことなどが加わり、熊野は聖地とされるようになりました。
扇神輿がしずしずと下りてきます
院政期に上皇などが盛んに熊野御幸をしたため(トップは後白河上皇で33回も!)全国的に知られるようになり、江戸時代には庶民にも火がついて「蟻の熊野詣」と言われるほど盛んになりました。熊野比丘尼(びくに)が宣伝隊として各地に派遣され、熊野曼荼羅の絵解きをして熊野へ誘ったことの効果もあります。比丘尼は今の岡山の「桃娘」のようなものでしょうか。
京都も江戸も遠いのに山道を歩いて辿りついた熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)への参詣は無上の喜びだったことでしょう。
扇神輿が供えられたご神体・那智の滝
例大祭では、那智大社から熊野の神を表わした12本の扇神輿(おおぎみこし。縦長の板に扇をたくさん付けたもの)をご神体である那智の滝まで運びます。これを清めるために大松明を先導させることから、火祭りと呼ばれるようになりました。
蚊に刺されながら崖っぷちの木陰で待つこと1時間。大松明を抱えた人たちが坂を下りてきました。松明の重さは50キロぐらいあるそうです。火の粉が舞い散り、水をかけてもらわないと着物が燃えてしまいそうな命がけの行道です。続いて下りてきた扇神輿は時々ひよひよ揺すられて、まるで笑っているようでおかしくなりました。
勇壮であり、ユーモラスでもあり。滝の前で繰り広げられる神事もどことなくおかしくて、宮司さんが「千年万年、あっぱれあっぱれ」と言って回る田刈式はまるで漫才のようです。仏教儀式のように厳粛でないのは、祭りは神さまを喜ばせるためのものだからだそうです。
親鸞聖人・ふたつの廟所(京都府)
肉弾三勇士の墓
親鸞聖人は自分の死後について「某(それがし)閉眼せば賀茂川に入れて魚に与ふべし」と言っていましたが、実際は弟子たちによって荼毘に付されました。
遺骨はあちこちに移され、今は浄土真宗本願寺派と真宗大谷派が廟所でそれぞれ祀っています。
本願寺派の大谷本廟(西大谷)も真宗大谷派の大谷祖廟(東大谷)も京都の東山にあり、どちらも広大で建物も立派です。
清水寺のほうから細い坂を登っていくと、大谷本廟の巨大な墓地が現れます。山の斜面を造成して新しいお墓がたくさんできていますが、古いのがそのままの一画も。戦死者の墓が集まっている区画には「肉弾三勇士の墓」というのもありました。死んでからも一個人ではなく戦争を背負って祀られているのは気の毒な気がします。
陸軍歩兵の墓
陸軍歩兵のお墓のひとつは無縁墓になりつつあります。明治38年清国で戦死、とありますからお墓を建てた人ももう亡くなったのでしょう。墓地の管理費が3年間未納になり、連絡もつかなかった場合、墓に改葬(遺骨を移して墓石を処分)公告を掲示し、1年経っても申し出がなければ寺で改葬できるという規則があります。このお墓に置かれた公告の期限はもうすぐです。戦争の記憶もこうしてだんだん薄れていくのでしょう。
大谷本廟では本山納骨ができます。以前、広島の真宗のお寺の寺族(住職の妻)と京都で会ったとき、彼女は門徒さんのお骨を3人分本山に納めてきたところだと言っていました。それがここだったのです。
あの重い骨壺を3つ持って来るなんで何て力持ち! と言ったら、関西の骨壺は小さいので楽々バッグに入ると言っていました。
そうでした。関東ではお骨は全部骨壺に納めますが、関西では一部を納めてあとは火葬場に残してきます。
ここでは親鸞聖人の遺骨が納められている祖檀に合葬してもらってお布施が最低2万円。いいですね。ただし門徒さんのみです。納骨の受付所にはたくさんの人が来ていました。
大谷祖廟の廟堂
大谷本廟のすぐ近くに大谷祖廟があります。親鸞聖人のほか、蓮如上人、幾百万の門徒が祀られているそうです。
廟堂の門は金色に装飾されてきらびやか。中はどうなっているのかと覗いたら、意外と地味な石の棺のようなものが見えました。真宗のお寺の装飾や仏壇が金ピカなのは、阿弥陀如来の極楽浄土を再現しているからで、別に成金趣味ではありません。こちらへの納骨も2万円から。ゆっくりと丁寧に参拝している老夫婦の姿が清々しく感じられました。
法然上人と東日本大震災(京都府)
今年は1212年に亡くなった浄土宗宗祖・法然上人800年大遠忌(おんき)の年で、浄土宗のお寺ではさまざまな行事が行われています。
京都では国立博物館で「法然 生涯と美術」が開催されているし、秋には東京国立博物館で「法然と親鸞 ゆかりの名宝展」が開かれます。親鸞聖人は750回忌ですから、師弟関係だったお二人を同時に記念する行事も行われています。
4月18日、浄土宗総本山・知恩院では、法然聖人の忌日の行事・御忌大会(ぎょきだいえ)が始まりました。この日は50年ごとに法然上人に天皇から大師号を賜る奉戴奉告法要の日です。お坊さんや信徒さんがバスを連ねて続々参上していました。
今度の名前は「法爾(ほうに)大師」。亡くなった後も50年ごとに名前が与えられるなんてすごいことですね。盛大な法会には、遺徳をいつまでも引き継いで伝えていこうという宗門の心意気が感じられます。
春に予定されていた800年大遠忌は東日本大震災の影響により秋に延期されました。
法然上人は「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば必ず仏の救済を受けて日々平和に過ごせ、浄土に生まれることができる、という他力の教えを広めました。それまで特権階級の人にしか浄土往生への道が開けていないとされていたところに、すべての人が念仏を唱えることで往生できるという画期的な思想を提唱したのです。
『法然上人絵伝』には、遊女に不浄の身であっても女人であっても往生できると説く象徴的な絵があります。
円満、穏やかな人柄で、どんな立場の人でも法然上人を悪く言う人はいません。私は穏やかな革命家だと思っています。
光明寺の法然上人石棺
京都の西、長岡京市の西山浄土宗総本山の光明寺に、法然上人の火葬跡地と石棺があります。石棺にはいろいろ説がありますが、法然上人のものとされています。
80歳で亡くなった法然上人の遺体を、対立していた比叡山の勢力に奪われてしまうことを恐れ、弟子たちが東山から遺体を密かに運んでこの地で荼毘に付したのです。闇の中、どんな思いで師の遺体を京都の街の端から端まで運んだのか、と思いを馳せてしまいます。
清水寺の東日本大震災犠牲者の位牌
「清水の舞台」で有名な清水寺は北法相宗のお寺ですが、法然上人が、人が集まるこの地で説法をしたという縁のあるお寺です。この日は御忌に際して法然上人像が開帳されていました。その隣には東日本大震災の犠牲者の大きな真新しい位牌が。京都のお寺にはどこにでも
このような位牌が安置されており、改めて災害の大きさに気付かされます。
にぎやかな観光客もこの前では頭を垂れて静かに拝んでいます。その横で法然上人が「私がついているよ」とおっしゃっているように思えました。法然上人、よろしくお願いします。
清水寺の法然上人像(お饅頭の後ろにいらっしゃいます)
遠くて近い国・トルコ
アヤソフィア大聖堂
ヒッタイト、ギリシャ・ローマ文明、ビザンチン帝国、オスマントルコ…はるか昔、歴史の教科書で目にした単語がガイドさんの口から次々出てきます。さまざまな文明が交錯した東洋と西洋の交差点・トルコに行ってきました。
トルコはガイドブックにはイスラム教徒が99パーセントと書かれていますが、実際は80パーセント程度。政教分離なので公的な場でのお祈りや女性のスカーフは禁止されています。
イスラム教というと毎日5回メッカに向かってお祈りし、女性はスカーフ着用というイメージがありますが、ガイドさんによると私たちがもつイスラム教徒のイメージは、アメリカが意図的に作り出した映像によるものだと。トルコではあまりお祈りはしないし、お酒も飲みます。実際に行ってみないとわからないものですね。ちなみに欧米でスタンダードな日本についてのガイドブックには、日本人は100パーセント仏教徒と書かれているそうです。
「狭いところから入ってくる情報を鵜呑みにしないで360度の視点をもってトルコを見てください!」とガイドさん。ほんとうにそうです。そんなわけでトルコではぐるぐる頭を回しながらいろんなものを見てきました。遺跡も自然も人も素晴らしかったです。
トルコは親日国と言われます。そのわけは日露戦争の日本の勝利でトルコがロシアの支配から解放されたことと、ある事件です。
明治時代、オスマン帝国の軍艦が天皇に親書を奉呈した帰り、台風に遭って紀伊半島の串本沖で遭難しました。大半の人は亡くなりましたが、生き延びた人たちを串本の漁師が家に引き取り、介抱し、乏しい食料を分けて半年間、面倒を見ました。帰国した軍人からこのことを聞いたオスマン帝国の王は、当時のお金で2万円を各戸にお礼したとか。串本にはトルコ記念館が建ち、現在でも交流が続いています。
トルコの小学校の教科書にこのことが書かれているので、子どもたちも「こんにちは!」と笑顔で声をかけてきます。
1980年のイラン・イラク戦争のとき、イランに取り残された邦人を脱出させるために救援機を飛ばしたのはトルコでした。その理由は「明治時代に助けてもらったから」。ちなみに日航は責任問題を協議するばかりで最後まで重い腰を上げなかったそうです。
クレオパトラの妹の墓
1923年、王族を倒して共和国を築いたアタテュルクは婦人参政権、政教分離、文字のアラビア語表示をやめてラテン文字に、などたくさんの改革をした人で、空港も橋も通りにもその名前がつき、あちこちに銅像が立っています。
イ スタンブールのアヤソフィア大聖堂はもとはギリシャ正教の寺院でしたが、イスラム教徒に占領されて、キリスト教装飾に漆喰が塗られてしまいました。共和国 成立後漆喰ははがされましたが、アタテュルクは二つの宗教がけんかしないようにとここを博物館にしました。さすがアタテュルクさんです。荘厳な堂内天井近 くのマリア像左右にはイスラムの文字装飾が掲げられ、天井から下げられたランプがゆらめいていました。
トルコはギリシャ、ローマの遺跡の上にオスマン帝国の遺跡が重なるなど、国全体が各文明のお墓みたいです。エフェソス遺跡にクレオパトラの妹・アルシノエの墓がありました。クレオパトラと争ってエフェソスに幽閉されたとか。お墓が残っていると、2000年前のきょうだいげんかの真実味が増してきます。
洞窟ホテルに泊まりました
王族や身分の高い人の墓地には彫刻が施された石棺・墓標が整然と並んでいます。高僧の場合は棺の上にターバンのような僧帽をかける棒が立っています。庶民の墓は畑の一角の糸杉の林の中。糸杉は根を広げないので土葬墓地に最適で、西洋の墓地にもよく使われています。空いているところに次々埋めていったという感じで、墓石があっちこっちに向いています。糸杉に守られてそれぞれの生を終えた人たちが静かに眠っているように思えました。
ガンジス川の沐浴風景~ブッダガヤの大塔 インド
ガンジス川で沐浴する人々
インドで見たいと思っていたのはガンジス川の沐浴風景です。ガンジス川の沐浴場はもはや観光地化していて、写真や映像でかなり知られています。2度目のインド旅行でバラナシ(旧ベナレス)に行ったとき、ようやく見ることができました。
まだ暗いうちにホテルを出て、地元の人や地方からやってきた人たちに混じって川へ向かいます。通りはラッシュさながら。店も出ていて何やらお祭りのようです。
ガンジスは漢訳で恒河(ごうが)と言い、10の52乗を表わす数の単位・恒河沙(ごうがしゃ)は、ガンジス川の砂の数を表わしています。それほど大きい川だということですが、本当に対岸がはるか彼方に見える大きな川でした。観光客はボートに乗って岸を眺めます。ボート目当てに物売りボートがやってきて、川の水を持ち帰るための小さなビンを盛んに勧めます。ヒンズー教徒ではないので川の水はお守りにはならないけれど、持ち帰って水の成分分析をしたら面白いのではないかと思いました。
ガンジス河畔の火葬風景
陽が昇ってきました。いるいる沐浴している人が。岸の階段になっているところで人々がうっとりと、一途な表情で沐浴をしています。階段の高い所でひげもじゃの仙人のような人が化石のように動かず瞑想しています。インドだなぁ。
煙が昇っている所は火葬場です。ボートで近くまで行くと…ふつうの焚火のような感じでした。ヒンズーではもうもうと立ち昇る煙で死者は天に昇るとされ、残った骨や灰を川に流すのがヒンズー教徒にとって最高の喜びだそうです。
火葬した骨が流れてくるようなところで沐浴するのが奇異に思われますが、インドを旅していると「これでいいのだ」とすべて肯定できそうな気がしてきます。
インドは不潔とか、訳がわからないとか言う人がいますが、訳わからなくてもいい、ふだんと違うものを見て価値観の違いを知るのが旅なのではないでしょうか。旅行先で日本車を見つけて大喜びで写真を撮ったり(たしかに日本車は多くて、ミャンマーでは中古の西武バスや神奈中バスが走っていました)、日本製品のコピーを見つけてお土産にしたりする人がいますが、一体何のための旅行? と言いたくなります。自国の優位性、はたまた自分の優越感を再確認するために行くのではもったいない。ふだんの判断基準を捨ててまっさらな気持ちで見聞することが旅を楽しいものにします。
ブッダガヤの大塔
インドはお釈迦様の生地ということで仏教国のように思えますが、ヒンズー教の国です。仏教は13世紀に最後の僧院がイスラム教徒に滅ぼされてからチベットや他の地域に行ってしまいました。ヒンズーにはたくさんの神様がいて、寺院も極彩色であでやか。
あまり表情がなく、哲学者のようなインド人もお祭りのときは一晩中ドンチャラドンチャラやっています。地方の農村に泊ったら、ちょうど村祭りの日で、にぎやか過ぎて眠れませんでした。一人静かに瞑想する仏教より、みんなで楽しく、のヒンズー教が受けたのはわかる気がします。
仏跡に集まってくるのは世界各国からの仏教徒です。どこでも敬虔な祈りの風景が見られました。お釈迦様成道の地・ブッダガヤの大塔の下では、チベットから来た仏教徒が板の上で五体投地を繰り返していました。日本人仏教徒は記念撮影ばかりしていて、真剣に祈っている姿は見かけませんでした。
黄金の国 ミャンマー
人々が寄進した金でできているパゴダ
黄金の国といわれるミャンマー。仏像も仏塔も金ピカでした。金が採れる国ではありますが、それをデモンストレーションしているわけではなく、この金ピカは人々の仏教信仰への証しです。仏様を崇める気持ちを形に表わすのに金や宝石を使って荘厳(しょうごん―仏像や仏塔を飾ること)しているのです。
ヤンゴンのシェダゴン・パゴダ(仏塔)は金ピカであるだけでなく、塔の頂上には人々が寄進したダイヤモンドや宝石がキラキラ輝いていました。それを見るための望遠鏡(日本人が寄付したという)を覗いたら、宝石をちりばめた腕輪がたくさん下がっていました。こちらの女性はよく装飾品を身に着けていますが、ある程度の歳になると「来世まで持っていけないから」と寄進するそうです。
電飾仏
仏像はどれも金箔貼りか、金色・極彩色にペイントされています。仏像の後光は電飾仕掛けでクリスマスのよう。電飾は電気屋さんがその年のニューモデルを寄進するので年々進化しているそうです。日本に住んでいたことのある現地ガイドさんは「チカチカしてないと仏像って気がしない」と言っていました。日本の渋い仏像はさぞかし物足りなかったでしょうね。
お供えはバナナとココナツをボールに盛ったものや花数珠が基本ですが、お菓子やペットボトル飲料なども供えられています。
ミャンマーは小乗仏教の国です。小乗とは小さな乗り物という意味で、大きな乗りで皆が悟りに至る可能性があるとする大乗仏教の人が、一部の人しか悟れないそれまでの仏教をいささか批判的に呼んだ名称です。
小乗ではお坊さんは労働をしてはならず、(本来なら)お金に触れることもできません。人々が寄進する食事をもらい、住居を建ててもらい、日常生活で必要なものすべてを用立ててもらいます。そして家族を持たず修行に専念し、教えを人々に還元するのです。人々は修行に励む僧や仏像に供養することで、現世と来世の幸福が得られると考えています。別に皆が悟りを開かなくても、お坊さんが代表して悟ってくれればいいわけです。このようにお互いに他を必要として支え合うシステムだから2000年以上もの間、壊れることはなかったのでしょう。
仏教徒は人口の85パーセントぐらい。貧富にかかわらず収入の1割ぐらいはお寺にお金や物品を寄進しているそうです。
お坊さんは人口の1割ぐらい。子どものときに出家しますが、それ以外の男性でも一生に一度は一時出家するのが望まれています。どこそこのだれが出家すると聞くと、親類縁者から生活必需品がわっと集まるそうです。僧になる人を応援することも功徳を積むことになるからです。
お坊さんにお布施をします
着いた日は11月の満月の祭りの日でした。寺院では仏に寄進する袈裟を一晩中織り、僧侶や人々が仏塔の周りで祈ります。若者もこの日は夜明かしが許されるので、わいわい集まって青春を謳歌しています。
翌日、バガンのシュエジーゴン・パゴダで寄進の儀式を見ました。それぞれの家からの寄進物が建物内にストックしてあり、太鼓や笛の大音声のなか、列をなしてやってくるお坊さんに係の人が一つひとつ手渡しています。どれが誰に行くかはわかりません。老僧がポリバケツに盛られたお菓子やジュースを抱えているところは何とも微笑ましい光景。小さいお坊さんはもらったお布施を数えて仲間と比べっこしたり、もらった品物を広げて見せ合ったりして、かわいいものです。でもこれは個人の所有にはならず僧院のものになります。
寄進する物は花笠のようなものにお札を下げたものが多いですが、米、飲料、お菓子、乾麵、落花生、弁当、果物、石鹸、歯ブラシなど何でもあり。それぞれが家にある物を持ちよった感があります。
これだけ仏教が生活に浸透しているから「菩提寺―うちのお寺」があるのかなと思ったのですが、特になく、自分が好きなお寺にお参りに行ったり寄進したり自由です。人気のあるお寺、そうでないお寺も当然出てきます。お坊さんは修行に励んで尊敬されるに足る人にならなければ文字通り「食べていけない」のです。
お葬式はどこのお寺でもやってくれて僧侶が5名ぐらい出仕し、無料です。学校も公立より寺子屋のほうが多くもちろん無料。社会への貢献度は日本のような大乗仏教国よりはるかに大きいように思えました。
「日本のお坊さんのように儀式するだけではないですよ」と現地ガイドさん。そうですね。ここでは仏教は生活そのものです。
みんなのお葬式

